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『節分』といえば、「鬼はー外、福はー内」と声をあげながらの楽しい豆まきを思い起こします。また、地域によって様々な風習が今も残っています。しかし、馴染み深い節分が本来どういう行事なのかあまり知られていません。これからこの節分について触れてみたいと思います。
◆節分の由来
「節分」とは現代では立春の前日を指しますが古くは立夏、立秋、立冬の前日も「節分」と呼びました。この季節の変わり日の夜に穢れや悪霊を追い払う行事が日本に伝わり長く宮中で行われるようになりました。
儀式は「追儺(ついな)」または「鬼やらい」と呼ばれ、武官から選ばれた「法相氏」という役が仮面をつけて、宮中の四方に溜まった疫鬼(疫病等の災いをもたらすとされる悪鬼)を追い払うのです。当時は陰陽寮(外来の祭事を執り行う官庁)が行う儀式で道教色が濃いものでした。この様子は京都・吉田神社の節分祭に今も残っています。
◆豆まきの始まり
節分の豆まきは中国の周時代に井戸に五穀を投げ入れて疫病避けを祈ったことに始まるようです。日本では平安初期の宇多天皇(御在位八八七~八九八)の御代に始まったという説があります。
都を鬼神が襲った時に毘沙門天のお告げによって豆をまいたところ、鬼は目を打たれて逃げ帰ったといいます。また、この時鬼の中に人食い鬼がいて、焼いた鯉を門につけるとその家に鬼は近づけないというお告げもあり、これが鰯に変わっていったようです。そして柊の葉も同様に、そのトゲで鬼を刺し、退ける意味から飾るようになりました。
記録としては『続日本記』の中に文武天皇の慶雲三年(七〇七)に大儺(大掛かりなお祓い行事)があったと記されていますが、これは疫病が流行したので、それを祓うための行事だったようです。
◆庶民の節分
江戸時代まで下がると節分の豆まきはすっかり庶民に定着します。江戸末期、天保年間に刊行され利行された斎藤月岑の『東都歳時記』には、「この夜には男女を問わず煎り豆をまいて柊と鰯の頭を戸外に挿す」とあります。また、この時の豆を取って置いて初雷の日にまじないとして食べたようです。
社寺でも節分行事が行われ、特別の守礼を授与し賑わったところもあります。また江戸城の大奥では女性達の華やかな豆まきの後、細腕で年男を胴上げして床に落とすという、痛そうな余興もありました。